日蓮大聖人が鎌倉幕府に提出した『立正安国論(りっしょうあんこくろん)』に記されていたとおり、他国侵逼難(たこくしんぴつなん)が現実のものとなりました。蒙古より通交を求める国書が届いたのです。それは通交といっても実質的に服属を求めたものであり、武力での侵略も辞さないことを示唆していました。また、この頃、鎌倉では干魃が続き、幕府は極楽寺良観(ごくらくじりょうかん)に祈雨のご祈祷を命じました。しかし、その効果はなく、炎天が続いたといわれます。これを機に大聖人はますます諸宗破折・幕府批判の語気を強めました。良観をはじめ、批判されていた諸宗の僧侶たちは、幕府へ大聖人の罪科を讒言しました。
文永(ぶんえい)八年(1271年)九月十二日の夜、貞永式目に定める「悪口之咎(あっくのとが)」にあたるとして、大聖人は幕府の実権者である平左衛門ノ尉頼綱(へいのさえもんのじょうよりつな)に捕らえられたのです。表向きには佐渡流罪でしたが、当時の刑場「龍ノ口(たつのくち)」で斬首する画策でした。裸馬に乗せられた大聖人は鎌倉市中を引き回されましたが、八幡宮の前で「八幡大菩薩よ、このまま法華経の行者を守らぬとは何たることよ。そなたは真の神か!」と諌言(かんげん)し、警護の武士を狼狽させたといいます。頸の座に着いた大聖人は不惜身命(ふしゃくしんみょう)、一心にお題目を唱え続けます。すると江ノ島の彼方より光の玉が飛来し、斬りかかった武士の太刀は折れ、周りの武士たちも恐れおののいて逃げ出したと伝えられています。大聖人は斬首を免れましたが、門下の人々には弾圧が及び、退転する者も続出します。その後、斬首を免れた大聖人は、佐渡へ流罪となるのです。
役人の刀
龍ノ口の首切り場で、役人が日蓮大聖人の首を切ろうします。持っていた刀を振り下ろそうとしたその時、江ノ島の彼方より光る玉が飛来し、その刀が三つに折れました。この様子はまさに法華経観世音菩薩普門品に説かれる「刀尋段段壊(とうじんだんだんね)」と重なります。
恐れおののく平頼綱
日蓮大聖人を殺めようとする首謀者の平頼綱。龍ノ口での奇瑞を目の当たりにし、恐れおののく姿が描かれています。
日蓮大聖人
この難を免れた日蓮大聖人。実際には、八代執権 北条時宗の正室が懐妊していたため、斬首を免れたとも伝えられています。