日蓮大聖人は、佐渡流罪赦免後、三度目の幕府諌言(かんげん)をされますが、聞き入れられませんでした。「三度聞き入れられずば、山林に交わる」の故事にならい、また波木井(はきい)実長(さねなが)の招きもあり、身延(みのぶ)の地に入られました。
身延での九ヶ年間、弟子の育成や信徒教化(きょうけ)に励まれました。そして、毎朝の日課として身延の裏山に登り、山頂より旭日に向かい、お題目を唱えられました。その方向には、大聖人がお生まれになられた千葉県小湊、ご両親が眠るお墓があります。雨の日も風の日も毎日お厭いなくお登りになり、ご両親へ報恩感謝を捧げていたのです。
「いま自分があるのは、母が毎日乳をふくませてくれたから、父が我が身を厭わず日々漁をし、お働き下さったからなのだ」と、その恩に報いるために毎日お弟子たちと身延の裏山に登り、法華経を読誦されていました。現在その山頂には思親閣 奥之院が建っています。
身延では、代表的な著書『撰時抄(せんじしょう)』(五十四歳)と『報恩抄(ほうおんじょう)』(五十五歳)を著されました。また、流罪先の佐渡にて弟子となり、その間に身の回りのお世話をされた阿仏坊が、大聖人を慕って三度にわたり佐渡より身延の地まで会いに来ていたのです。
身延の厳しい環境もあり、大聖人はいつしか胃腸に関わる病にかかり、湯治のため常陸の湯に向かわれるため身延の地を離れます。その道すがら、東京 池上、池上宗仲の館で御入滅されるのです。
昇る旭日と日蓮大聖人
大聖人といえば、旭日に向かい手を合わせ、お題目を唱えている姿を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。代表的なのが立教開宗と思親閣での大聖人です。
弟子の日朗上人
六老僧の一人、師孝第一といわれるお弟子の日朗上人。いつも大聖人に付き従い、身の回りのお世話をしていました。旭日が昇る頃に山頂に辿り着くためには、暗いうちから出発しなければなりません。大聖人の足下を照らすための灯りを持っていたことでしょう。
昇る旭日
昇る旭日の方角には、駿河湾・三浦半島がみえます。その先は大聖人のご両親が眠るお墓がある千葉県小湊です。毎日お山に登りお題目を唱えられ報恩感謝の思いを捧げていたのです。旭日の昇る位置は季節によって変わります。冬は富士山より右側から、夏は左側から昇ります。この位置は丁度お正月の旭日です。
富士山と雲の龍
三月と九月のお彼岸の時期には、富士山頂から旭日が昇るダイヤモンド富士を拝むことができます。富士山の左側から湧き出る雲には龍が描写されています。