小松原(こまつばら)法難(ほうなん)

文永ぶんえい元年(一二六四)十一月十一日の黄昏たそがれ時、日蓮にちれん大聖人だいしょうにんご一行いっこうが、天津あまつ城主じょうしゅ 工く藤どう吉よし隆たか邸ていに招まねかれ向かう道中、小こ松まつ原ばらにて地じ頭とう 東とう条じょう景かげ信のぶの一軍いちぐんの襲撃しゅうげきを受けます。

東条景信の一軍は数百人、大聖人のお供ともはわずか数人です。お弟子の中で大たい力りき自じ慢まんの鏡きょう忍にん房ぼうが一軍に立ち向かい、初めのうちは縦じゅう横おう無む尽じんに働きましたが、何といっても多た勢ぜいに無ぶ勢ぜい、次第に切りまくられ打ち倒れてしまいます。そして日蓮大聖人も景かげ信のぶの馬ば上じょうから打ち下ろす太刀たちをお数じゅ珠ずで受けますが、数珠の親玉おやだまが割れ、眉み間けんに三さん寸すんの傷を負います。その際に虚こ空くうに顕あらわれた鬼き子し母も神じんの御ご威い光こうに景信は落馬して気を失ってしまいました。

襲撃の知らせを受けた工藤吉隆は、裸はだか馬うまに打うち跨またがり小松原にはせ参さんじ加か勢せいしますが、やがて討ち取られてしまいます。その後、落馬した景信は戸と板いたに乗せられ自分の邸やしきに引き上げていき、家け来らいは蜘蛛くもの子こを散らしたかのように去って行きました。

この法難ほうなんにより、鏡忍房・工藤吉隆が殉教じゅんきょうしました。お二人は不ふ惜しゃく身しん命みょうの精神で大聖人のお命をお護まもりしたのです。

翌早朝、傷口きずぐちを押さえながら休まれている日蓮大聖人のお姿を見た、通りがかりの村の老婆が、被かぶっていた真ま綿わたの頭ず巾きんを大聖人に差し出します。受け取られた大聖人が、真綿の頭巾で傷口を押さえられると忽たちまち血で赤く染まりました。この故事こじにちなみ、冬の期間、本堂のお祖師そし様さまに紅白こうはくの綿帽子をお被せになるのです。

日蓮大聖人と東条景信

地頭 東条景信が馬上から刀で斬りつけ、日蓮聖人は眉間に刀傷を負います。

日蓮大聖人

斬りつけられた日蓮大聖人は、咄嗟に右手で数珠を持ち、その太刀をお数珠で受けたのでした。

鬼子母神

槇の木の上に突如現れた鬼子母神。鬼子母神には鬼形と天女形があり、手には石榴(ざくろ)を持ちます。鬼型は破邪調伏、天女形は安産子育てを表すとされ、石榴の実には種が沢山あることから子宝の象徴とされています。

鏡忍房

弟子の鏡忍房は近くに植えられた松の木を抜き取り、命がけで日蓮大聖人をお守りしました。殉教した鏡忍房の名は、霊跡寺院 小松原山鏡忍寺の寺号の由来にもなっています。

工藤吉隆

日蓮大聖人の襲撃の知らせを受けて駆けつけた工藤吉隆ですが、多勢に無勢で討ち取られてしまわれました。

東条景信

東条郷の地頭であり、念仏の熱心な信者であった東条景信。念仏の敵、日蓮大聖人を小松原にて今か今かと待ち構えていたのでした。