佐渡流罪 その2

佐渡流罪となった日蓮大聖人が最初に過ごされたのが塚原三昧堂(つかはらさんまいどう)です。塚原とは死人を捨てる場所のことで、三昧堂といっても雨風や雪が吹き込む、生きて冬を越せるような場所ではない荒ら家でした。
大聖人が来たとの噂を聞きつけた多くの僧侶が、「念仏の敵!」とばかりに法論を仕掛けてきます。しかしながら、大聖人が一言二言答えると、反論できず、狼狽するばかりか、即座に大聖人に帰依した者もいたといいます。
そのような中、熱心な念仏信者だった阿仏房と千日尼という老夫婦がおり、大聖人へ帰依されます。二人は密かに大聖人へ食事を提供し、身の回りの世話をし続けたのです。後に大聖人は回想し、二人のことを、まるで両親が佐渡国へ生まれ変わったのではないかと報恩の思いを述べられています。
また、佐渡では重要な書である『開目抄』や『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』を著し、さらに、「臨滅度時大曼荼羅」と呼ばれる重要な御本尊なども顕されました。
この頃、鎌倉では内乱が起こり、蒙古襲来も現実のものとなりつつありました。まさに『立正安国論』の中で指摘した通りのことが起こったのです。その状況を受け、鎌倉幕府は大聖人の赦免を決め、大聖人は佐渡の地を離れ、鎌倉へ戻ることになったのでした。

日蓮大聖人を支える阿仏房夫妻

日蓮大聖人に向かい、手を合わせているのが阿仏房、お供え物を持っているのが千日尼です。この阿仏房夫妻は承久の乱の折、順徳上皇が佐渡に流された際に同行してきたと伝えられています。千日尼の名前は、大聖人の佐渡滞在が約千日間であり、その間、献身的に支えられたことに由来します。大聖人の流罪赦免後、当時八十歳を過ぎていた阿仏房は三度にわたり、身延に隠棲中の大聖人にお会いしに行きました。

短刀を持つ男

松の木陰に隠れ、懐から短刀を抜き出している男がいます。これは日蓮大聖人が佐渡に流されたのを聞きつけ、法論を仕掛けてきた諸宗派の僧侶や大聖人の命を奪おうとする輩を象徴しています。

転がるどくろ

日蓮大聖人が最初に滞在したのは塚原三昧堂です。塚原とは墓場のことで、左下に転がるどくろは死人を捨てる墓場を表現しています。

日蓮大聖人の随身仏

日蓮大聖人が伊豆流罪の際に譲り受けたお釈迦様の立像。この立像は生涯にわたり大事にされ、佐渡でも大切に祀られていた様子が表現されています。